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エレファントカシマシ伝説

なんのことはありません。エレファントカシマシ版「トリビアの泉」がやってみたかっただけです・・・。というわけで、みなさんが知っているエレファントカシマシに関する雑学をお待ちしてます。うちは「入門サイト」の看板を掲げていますので、すでにファンのみなさんに広く知られているようなことでも構いません。いい機会なので、ここでまとめてしまおうという魂胆です。「昔のライブでこんなことがあった」とかでもいいです。バカバカしいネタも大歓迎!色々不具合が出てくるかもしれませんが、やっていくうちにいじっていきますので、どうか温かい目で見守ってやって下さい。

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 エレファントカシマシ伝説


最終更新:2003/12/21

 「ヒロジ先輩」が出てくるマンガがある

・西炯子(にしけいこ)さんの四コマ「ひとりで生きるモン!」です。徳間書店のキャラコミックススペシャルから出ています。もともと小学館のパレット文庫に挟まれているしおりに連載(?)されていた四コママンガを集めたもので、様々なキャラクターが繰り広げる不条理ギャクが、1ページに2本納められているという密度の濃い作品。この中に、エレカシ宮本らしきキャラが出てくる話が2つあるんだそうです。学ランを来た彼は、下級生に「ヒロジ先輩!」と呼ばれるんだそうです(そのまんまやがな?!)。これ以外の話にもエレファントカシマシの歌詞が出てきたり、西さんの他のマンガにもそれらしきキャラが出てきたりと、かなりエレファントカシマシのことはお好きなようです。

<提供:チロさん>


 【疑惑】 石森敏行は乳首を押すと歌をうたう

・フジテレビ系の音楽番組「Mu-Mu(Music Museum)」出演時のひとこま。曲はどういう風に作ってるの?と聞かれた宮本は石くんを指差して、「この人の乳首を押すと歌をうたってくれる」と発言。周りはバカ受け、ひとり空回り気味に弁解を続ける宮本、そしてその混乱のままそのコーナーは終ってしまいました・・・。この他にも、どうやら石くんの体には、宮本にしか使えないスイッチの類がたくさんついているようです。

<提供:そら☆さん>


 「生存者は今日も嗤う」というマンガがある

・「生存者は今日も嗤う」は、「社会不適合者の穴」で鮮烈なデビューを飾った田村マリオさんの短編集、「春ノ虫虫」に入っています。太田出版から2003年11月に発売されました。この話には、死刑囚の死体を素材にして依頼された人形を作る、宮本という主人公が出てくるそうです(頭がボサボサしていて顔色も悪いらしい)。耽美的なエログロ路線のマンガを描く人みたいなので、苦手は人は要注意。内容はバンドとはまったく無関係ですが、これも広い意味でのエレファントカシマシの影響なんでしょうね。

<提供:イヌノアウさん>


 ファンクラブ「PAO」の会報は、初期はCDケースに入っていた

・エレファントカシマシが現在の事務所であるFAITHに移籍した時に、初めてのファンクラブ「PAO」が誕生しました。そしてそのファンクラブの会報である「PAO」の記念すべき第1号は、現在のような冊子ではなく、CDケースに入ったものでした。第5号まではCDケース入りでしたが、その後、現在(2003年10月号)までに5回のモデルチェンジを経ています。

[第1期] No.1〜5:CDケースに入ってた
[第2期] No.6,7:横長の紙ジャケみたいなのに入ってた
[第3期] No.8〜23:B5サイズ
[第4期] No.24,25:A4サイズ
[第5期(現在)] No.26〜 :A6サイズ

オフィシャルサイトでバックナンバーの表紙を見ることができます。第3期は写真や内容がまるでアイドルグループの会報のような感じで、困惑しつつもニヤニヤ眺めていたのは、今となってはいい思い出ですね。それにしても、あまりモデルチェンジが多いと保存するときに不揃いになるのがちょっと気になる・・・。

<提供:たかまつ子さん>


 「旅の途中」は最初、「太陽は燃えている」というタイトルだった

・ポニーキャニオン3部作と「ガストロンジャー」の狭間に作られたシングル、「真夜中のヒーロー」の両A面曲として発表された「旅の途中」。この曲は最初、発売前に「太陽は燃えている」というタイトルで発表され、そしてすぐに「旅の途中」に変更されました。発表された当時、イエローモンキーの「太陽が燃えている」とタイトルが酷似していることがずいぶんと話題になったような気がします。


 「good morning」の中で、宮本浩次はムセている

・アルバム「good morning」の中のタイトル曲「good morning」の中で、バックコーラスの宮本がムセいています。ラストに近いところ、最後の「bye-bye クリスティーヌ Goodbye good morning」のところです。これがそのまま採用されてしまっているのは、やっぱり宮本浩次プロディースだったからこそなんでしょうね。


 【疑惑】 ガランジャーが突破すると危ない

・エピックソニーが制作していたプロモーション番組「eZ」で1988年に放送された、エレファントカシマシのプロモーションビデオより(「ファイティングマン」と「やさしさ」が続きで流れる)。人通りの多い雨の交差点で、傘も差さずに横に並んでたたずむ4人(はっきり言って通行のじゃま)。宮本と石くんが他愛のない話をしてる中で、「ガランジャーが突破してしまって、うまく行ってた関係だったのに喧嘩になってしまった人がいる」みたいな話が出てきます。ガランジャーが突破すると、かなり危険らしいです。みなさんもくれぐれもお気をつけ下さい。・・・で、結局ガランジャーって何でしょうね?多分、スタッフをけむに巻くための宮本流のハッタリトークだと思うんですが、本当はどうなんでしょう?石くんも、「あのガランジャー突破?!」とか言って、宮本のハッタリトークにしっかり付き合ってあげているところが、なんとも言えず微笑ましいです。ちなみにこのシーンでは、隣に立ってるトミと成ちゃんがちょっとだけ言葉を交わしています。成ちゃんの若々しい声が聴ける貴重なシーンです(トミはぶつぶつ文句言ってる)。

参考:エピック時代のプロモーションビデオ
eZで流れていたビデオは番組のために作ったもので、厳密にはいわゆるプロモーションビデオではないそうです。エレファントカシマシが初めてプロモーションビデオを作ったのは、アルバム「東京の空」の時です。アルバム7枚作るまでプロモーションビデオがなかったっていうのは、ある意味伝説?!


 【疑惑】 エレファントカシマシのメンバーの趣味は「みょう」である

エレファントカシマシがデビュー当時、「PATI・PATI」か何かの雑誌で、新人バンドを紹介するコーナーに載ったことがあるそうなのですが、他のバンドが色々な質問にきちんと応えているのに対し、エレファントカシマシだけは、全ての質問に「みょう」とだけ書いてあったのだそうです。「趣味はなんですか?」「みょう」、「初めて買ったレコードは?」「みょう」・・・等々。やっぱりエレファントカシマシを知らない人たちが見たら、ひいちゃうんだろうなぁ。エピック時代からのファンの人たちというは、こうした彼ら(ほとんど宮本)の数々の奇行をリアルタイムで体験して、ふるいにかけられて残ってきた人たちなので、本当に尊敬に値します。

<提供:チロさん>


 【疑惑】 宮本以外のメンバーは、宮本に直して欲しいことはないと思っている

・1999年に放送された、HNK「トップランナー」でのひとこま。宮本に直して欲しいと思っていることを、宮本以外のメンバーが各自フリップに書くというコーナーがあったのですが、3人の答えは異口同音に「特になし」。番組を見ていたほとんどの人は、「んな訳ないだろ?!」と突っ込んだのではないでしょうか。しかしこれは、石くんが「なし」と書く→それをトミが見て「なし」と書く→それを成ちゃんが見て「なし」と書く、というカンニング連鎖だったのです。それでも多分、最初に書いた石くんだけは本当にそう思っているような気がします。司会の益子さんも「なし!・・・なしですか?!」と唖然としていました。

参考:トップランナー
NHK総合の人気トーク番組。当時の司会者は、歌手の大江千里と元バレーボール選手の益子直美。エレファントカシマシの活動の歴史を振り返るという内容で、最初からハイテンションだった宮本が、次第に司会者そっちのけで、「俺たち、まだ終ってなかったんだよ」と立ち上がって熱弁するという、非常に熱く濃い番組でした。当時「真夜中のヒーロー」を発売したばかりだったエレファントカシマシにとって、この番組はポニーキャニオン時代の「甘えキャラ」を脱却した最初の番組となり、「ガストロンジャー」に続く分岐点になりました(当時のインタビューでもそう言ってたと思います)。ポニーキャニオン時代のラブソングモードも3作目になり、そろそろエピック時代の熱さを切望していた当時のファンは、この番組でのトークと演奏の切れっぷりに、おおいに溜飲を下げました。事実、エレファントカシマシが出演した回は反響が大きかったらしく、リクエストによって総集編としてアンコール放送されました。

<提供:みさきさん>


 エレファントカシマシのライブ放送で、宮本の発言がピー音で消されたことがある

・2002年3月10日、渋谷タワーレコードのインストアライブでの出来事。「星の砂」の途中で思いっきり「日本の神は天皇陛下だ」と言っていて、放送では「日本のピ〜〜〜」と消されてます。もともとそういう歌なんだからしょうがないじゃん、とも思ったりするんですが。もし生中継だったら、放送局は大騒ぎだったんでしょうか。なにしろ宮本先生、真っ昼間の生放送で「ちんちん!」と言ってしまうお方ですから・・・


 宮本浩次は「銀髪になってくれ」と頼まれたことがある

・「ガストロンジャー」の幻バージョンのPVを撮影する際に、監督から銀髪にして欲しいと頼まれたんだそうです。直前まで悩んだ末に結局できなかったと言ってました。「クリップス2」の中のインタビューで宮本自身が発言してました。

参考:「ガストロンジャー」幻バージョン
ギンギラのメタリックなスタジオセットの中で、赤いジャンパーを着て、どっかの弱小新興プロレス団体のチャンピオンベルトみたいなベルト(?)をつけた宮本が頭をかきむしりながら歌ってる、インパクト大のお蔵入りプロモビデオ(石くんや成ちゃんもメタリックシルバーの楽器を弾いている)。

<提供:そら☆さん>


 エレファントカシマシの曲を流してくれるもんじゃ屋がある

・東京月島にある「ま乃」です。このお店は、エレファントカシマシがテレビ番組「The Roots」に出演したときに、収録地のひとつとして使われました(ひたすらもんじゃを焼き続ける成ちゃんの姿が印象的でした)。お店には、そのときにハービー山口氏が撮影したと思われるメンバー4人の写真が飾ってあるそうです。そして何と。ま乃では、お客がエレカシファンだとわかると、店内にエレファントカシマシの曲を流してくれるそうですよ。聖地!

参考:「The Roots」
衛星テレビの音楽専門チャンネル、Viewsicで放送。ホストはハービー山口氏。ミュージシャンゆかりの地を共に歩き、彼らのルーツを探る番組。エレカシの回も、昔練習してた楽器店、アマチュア時代に出演してたライブハウス、成ちゃんの実家などを訪れて昔話に花を咲かせてました。ハービーさんはエピック時代のジャケットを撮影していたこともあり、4人ともリラックスしたいい雰囲気で、とっても充実した内容でした。まだ見たことがない方、ぜひ手に入れて下さい!

(参考サイト:もじろうの家ま乃

<提供:たかまつ子さん>


 高緑成治の実家は銭湯である

・東京月島にある「東湯」です。聖地!

(参考サイト:東京レトロを行く東湯


 宮本以外の3人のサインが飾ってあるもんじゃ屋がある

・東京月島にある「麦」です。なぜ宮本がいないんでしょうね?どういう経緯で3人でサインを書くことになったのか、おおいに興味ありますね。エレカシ七不思議のひとつです(ウソです)。このお店には、他にも有名人のサインが並んでいるそうです。なお、3人サインの証拠写真がウーハンさんのサイトにありますので、ぜひご覧ください。ウーハンさん、ありがとうございます!

(参考サイト:ウーハンの「おだやかでラジカルな日常」ダンディ%兼秩B―月島八重桜純愛編―

(参考サイト:もんじゃ麦−月島店

<提供:たかまつ子さん、ウーハンさん>


 【噂】 マキシシングル「俺の道」「ハロー人生!!」「生命賛歌」の中で、シークレットトラックとして3曲目が入ってるものがある

ヤフーオークションの出品者のコメントが出所のようです。現在確認している限りでは、そういう事実はありません。もしかしたら、ン百枚に1枚の確率で3曲入りのものが存在する・・・訳はないだろうなぁ。念のために、各シングルの収録時間を調べてみました。

「俺の道」・・・俺の道 (4:33)/ろくでなし (4:34)
「ハロー人生!!」・・・ハロー人生!! (4:12)/ろくでなし (4:34)
「生命賛歌」・・・生命賛歌 (4:51)/ろくでなし (4:34)

<提供:レスポールさん>


 「はじめての僕デス」のB面は「ゴクロウサン」である

宮本少年のデビュー盤(EP盤と呼ばれるシングルレコード)は、A面はもちろん「はじめての僕デス」なのですが、B面は何と、「ゴクロウサン」という曲だったんだそうです。もちろんエレファントカシマシの曲とは同名異曲です(少年があの「ゴクロウサン」を歌ってたらかなりコワイ・・・)。「ゴクロウサン」を歌っていたのは、小原重彦と藤本房子という人でした。ちなみに「はじめての僕デス」と「ゴクロウサン」は、共に1976年(昭和51年)の8月から9月にかけてNHK「みんなのうた」で放送されました。

参考:楽曲データ
「はじめての僕デス」 関沢新一:作詞/中村勝彦:作曲
「ゴクロウサン」 伊藤アキラ:作詞/森田公一:作曲

<提供:ウーハンさん>


 宮本浩次の幼少の頃の写真が載っている百科辞典がある

学研が出している総合百科事典の何巻目かに、宮本浩次1才の頃の写真が使われていたそうです。「1才にして立つ」みたいな項目に使われていたらしいです。学研のサイトを少し調べてみましたが、こういう総合百科辞典の類は数年に一度のペースで内容を刷新して新しいものを出しているようなので、どの年に出版された何という辞典だったかまでは特定できませんでした。ひょっとすると複数の辞典に使い回されている可能性もありますね。目撃証言、求む!

<提供:はるちゃんさん>


 昔のエレファントカシマシのライブは、アンコールはなかった

・エピック時代のライブは、MCもほとんどなしで、ただただ宮本が全力で歌い続けて1時間ぐらいで終るものが多かったようです。アンコールはないのが普通で、まれにアンコールがあると、客席がどよめいたんだそうです。

<提供:いっしーさん>


 宮本浩次はギターを立って弾くことができなかった

・エピック時代、特に「生活」以降は宮本がギターを弾く曲が増えていきますが、それらの曲を演奏するときには、宮本は必ずパイプ椅子に座っていました。というより、立って弾くことができなかったようです。当時「珍奇男」をスタジオで演奏しているビデオで、曲の途中で宮本がちょっと立ち上がってしまったすきに、石くんがパイプ椅子を蹴飛ばしてたたんでしまったため、宮本は座ることができなくなって、ギターがメロメロになってちゃんと弾けてないというシーンがあります。本当に立って弾くことができなかったようです。後で宮本自身が、家では座って練習していたのでステージでも座ってしか演奏できなかった、というようなことを言っていました(その理屈もどうかと思うけど・・・)。立って弾き始めたのは「東京の空」あたりかららしいです。ちなみに現在でも、当時のレパートリーを演奏するときは座って弾いています。

<提供:いっしーさん>


 昔のエレファントカシマシのライブは、ライブハウスでもパイプ椅子を並べていた

・エピック時代のエレファントカシマシのライブは、手拍子や歓声といったものは全くありませんでした(宮本が静かに聞くことを強要したため)。客はクラシックのコンサートのように、1曲終るごとに、上品な(?)拍手をパラパラとしていたのです。その頃の様子はいくつかの映像も残っているので、実際に確認することができます。ライブハウスでも同様で、客は並べられたパイプ椅子に座って、やはり静かに聞いていたそうです。現在でもエレカシファンはおとなしいと言われますが、これはエピック時代からのファンの気質を受け継いでいるのでしょうか?

<提供:いっしーさん>


 エレファントカシマシのファンの集いがあった

・「お知らせをもらっていた関東圏の方対象みたいな感じだった気がします。花束とかを貰って写真に収まっていた浩次さんのスナップが印象的でした。多分、場所は双啓舎じゃ無いのでしょうか?事務所っぽい印象のスナップでしたから・・・。詳しくは覚えてませんが、『くそ〜!!悔しい〜』って思ったのと『何だかファンの集いってのが似合わない〜』って感じたのが印象に残ってます。間違い無く、後にも先にもあれ一回こっきりではないのでしょうか(^^;)多分、デビュー前だったと思います」。当時、客を罵倒するだけのライブ(by渋谷陽一)をしていた彼らのファンの集い・・・どんな話をしたんでしょうね。

<提供:からりんさん>


 「ソウルレスキュー」というマンガがある

・「ソウルレスキュー」は、菅野文(かんのあや)さんの初コミックスとなったマンガです。花と夢コミックスから出ています。シャララという名前の女の子や、武蔵野という名前の男の子が登場したり、「SAMURAI飯店」や「生活」という店が出てくるんだそうです。さらに、コミックスのオビには、白シャツに黒ズボンでギターを弾いている後姿のイラストがあって、そのすぐ横にekと書いてあるんだそうで・・・徹底してますね。同じ作者で「ココロに花を!!」というマンガもあります。こちらも花と夢コミックスから出ています。

<提供:みやさん、緋色さん>


  【審議】 全国5ヶ所のZEPPをまわる「ZEPPツアー」を初めて行ったのはエレファントカシマシである

全国5ヶ所をネットするライブハウスZEPPは、札幌、仙台、東京、大阪、福岡にあります(ちなみに、一番新しいZEPP SENDAIが出来たのは2000年8月1日)。いちどのツアーでその5ヶ所をすべてまわる「ZEPPツアー」を最初にやったのは、2001年のエレファントカシマシだとされています。「ZEPP TOUR 2001」と題されたツアーの日程は以下の通りでした。

5/19 ZEPP TOKYO
5/20 ZEPP TOKYO
5/24 ZEPP FUKUOKA
5/26 ZEPP OSAKA
5/27 ZEPP OSAKA
6/01 ZEPP SENDAI
6/03 ZEPP SAPPORO

ZEPPのサイトで真偽を確かめようと思っているのですが、何しろ5ヶ所のスケジュールを照らし合わせなければならないため、まだ確かめるには至っていません。でもツアー当時、某雑誌に「ZEPPツアーをするのはエレカシが初めて」というような記事があったような気がするんですが・・・

<提供:ラテさん>


 宮本浩次が初めて買ったレコードは、ベートーヴェンの「運命」である

・これは本人があちこちで話しているんで、割と有名ですよね。「運命」とはベートーヴェンが作曲した交響曲のひとつで、「交響曲第5番ハ短調」というのが正式名称です。冒頭の「ジャジャジャジャーン!」だけが余りにも有名。このテーマを指してベートーヴェン自身が、「運命はかく扉をたたく」と言ったという伝説から、「運命」という通称で呼ばれています。宮本少年がこのままクラシックの道に進んでいたら、どうなっていたんでしょうね?今ではベートーヴェンから受けた影響は、髪型だけ?!

<提供:みさきさん>


 宮本浩次は雑誌連載を同時に3本抱えていたことがある

・かつて宮本氏が連載していた雑誌は5誌あります。以下、「掲載タイトル」 (雑誌名) 発売年月 の順です(なお、発売年月は雑誌の表記をもとにしているので、実際の発売日とはズレている場合があります)。

「東京の空」 (ブリッジ) '99/8〜'02/4
「東京の空」 (ロッキング・オン・ジャパン) '02/5〜'03/4 (ブジッリから移籍)
「エレカシ宮本の率直に言って!」 (オリーブ) '00/5〜'00/7 (休刊のため終了)
「明日に向かって歩け!」 (週刊プレイボーイ) '00/6〜'01/6
「旅の途中」 (anan) '01/1〜'02/5

このうち、同時に3本抱えていた期間は2回。最初は、「ブリッジ」「オリーブ」「プレイボーイ」の3誌で、2000年の6月〜7月。2度目は、「ブリッジ」「プレイボーイ」「anan」の3誌で、2001年1月〜6月。これにインターネットマガジン「JUSTICE」での連載対談(「宮本浩次、かく語りき」 '00/11〜'02/1。廃刊のため終了)も含めると、同時に4つのコーナーを抱えていたこともある、売れっ子作家だったのです。「東京の空」と「明日に向かって歩け!」は後に単行本化されました。雑誌連載当時、男子にとっては「オリーブ」を、女子にとっては「プレイボーイ」を立ち読みするのは、かなり勇気がいりました(よね?)。

<提供:晩秋人さん>


 「孤独な太陽」は、もともとSMAP用に作られた曲である

・プロモーション用に作ってSMAPに持って行ったものの、音域が合わないなどの理由で断られたそうです。雑誌「BRIDGE」(2001/5)のインタビューで宮本本人が言ってました。もしもSMAPが歌っていたら・・・やっぱりドッカンドッカン売れちゃうのかな?ちなみにマキシシングル「孤独な太陽」のカップリング曲「東京ジェラシィ」は隠れた名作。


 旧事務所のお知らせは、スタッフの手作りだった

・旧事務所の双啓舎は、社長兼マネージャーの綾部氏と、女性スタッフの計2人だけの小さな事務所でした。当時ファンクラブはありませんでしたが、希望者には女性スタッフがワープロで作った手作りの「お知らせ」が届けられていました。1994年の秋に女性スタッフが退職してからは、社長である綾部氏直筆の「お知らせ」が届けられたそうです。

<提供:からりんさん>


 宮本浩次は2人いる

・これは騙された人も結構いらっしゃるのではないでしょうか?もう一人の「宮本浩次」はソロシンガーで「みやもとこうじ」さんです。デビュー曲「タイトでキュートなヒップがシュールなジョークとムードでテレフォンナンバー」がヒットしましたよね。我らが「みやもとひろじ」先生はソロ活動はしておりませんので、CD購入時にはくれぐれもお間違えなく。

(参考サイト:宮本浩次オフィシャルWebsite

<提供:みやさん>


 宮本浩次は演奏中に声を詰まらせて泣いたことがある

・1999年11月14日、渋谷のクラブ・クアトロでのライブ。「寒き夜」を歌っている最中の出来事。このライブはテレビでも放送されましたので、映像で確認することもできます。声を詰まらせながら、顔をくしゃくしゃにして歌う宮本氏の姿がとっても印象的でした。赤羽時代を思い出して泣いてしまったんだそうです。

<提供:みやさん>


 宮本浩次はドラマに出演し、新人賞を受賞した

・2000年7月〜9月に放送されたTBS系ドラマ「Friends」に、和久井映見の(元)恋人役としてレギュラー出演。結構重要な役を演じてました。そしてその年の秋、雑誌「ザ・テレビジョン」の「第26回ドラマアカデミー賞」において、見事、新人俳優賞を受賞しました。さらに、TBS系「オールスター赤面申告ハプニング大賞2000秋」においても「中ハプニング大賞」を受賞。

(参考サイト:Webザ・テレビジョン:ドラマアカデミー賞

<提供:みさきさん、かおりんさん>


 宮本浩次は事務所の電話番をしていた

・いわゆるエピック時代の事務所、双啓舎時代の話。ライブハウスからの電話なんかも、メンバーが普通に取っていたらしいです。もっとも電話番というよりは、たまたまそこに居合わせただけ、というのが真相だとは思いますが。しかし昔の会報なんかを読んでも思いますが、彼らの曲のイメージとは違い、当時の事務所はかなりほのぼのした雰囲気だったようです。

<提供:かおりんさん>


 宮本浩次はピアノ教室に通っていたことがあるが、先生に「恐いので辞めて下さい」とお願いされて辞めた

・「昔ねぇ。ヤマハのピアノ教室で僕習った時あるんですよ。先生がこれ女の先生でねぇ、非常にやっぱクラシックのね、一本道でやってきた方だったんです。丁度『奴隷天国』なんていうレコード出してて、テンション高かったんですよ。で、先生がこうピアノ弾いてね、『何でそんなとこでそうなるんですか』(ドスの利いた声で)みたいな言い方がねぇちょっとキツかったみたいなんですね。で、先生泣いちゃってねぇ。『宮本さん、私ねあなたと話してるともう恐くてね、ダメだから、辞めて下さい!』言われちゃってね。ちょっと申し訳なかった。僕ちょっとね悲しかった。悲しい思い出ですね。こう、胸が痛みます」。もう1年早く、「エレファントカシマシ5」の頃にでも習っていれば、また違った結果になっていたかも・・・。

(参考サイト:晩秋便り> 「エレカシラジオ4/20/2002」より抜粋)

<提供:晩秋人さん>


 冨永義之とリッチー・ブラックモアは同じ誕生日である

・冨永は1966年4月14日、リッチー・ブラックモアは1945年4月14日生まれ。他には今井美樹や工藤静香も同じ誕生日です。

(参考サイト:誕生日が4月14日の人々


 高緑成治とレオナルド・ダ・ヴィンチは同じ誕生日である

・高緑は1966年4月15日、ダ・ヴィンチは1452年4月15日生まれ。500歳以上も離れてます(!)。他には金日成なんて名前も。

(参考サイト:誕生日が4月15日の人々


 石森敏行と横山やすしは同じ誕生日である

・石森は1967年3月18日、やすしは1944年3月18日生まれ。トヨエツも同じ誕生日。元「太陽とシスコムーン」のRuRuなんて名前も。

(参考サイト:誕生日が3月18日の人々


 宮本浩次と松井秀喜は同じ誕生日である

・宮本は1966年6月12日、松井は1974年6月12日生まれ。他にはフリースタイルスキーのメダリスト、里谷多英や釈由美子も同じ誕生日です。

(参考サイト:誕生日が6月12日の人々


 NHKで自主規制がかかった曲がある

・1999年に発売された「ガストロンジャー」です。「人の良さそうな変な奴がのせられて偉くなっちゃって」の部分が、当時の総理大臣、故小渕恵三氏を指しているものとして、HNK-FMでは一切放送されず、もちろんポップジャムからもお呼びはかかりませんでした。


 エレカシの曲で唯一、作詞作曲に宮本浩次が参加していない曲がある

・パワフルドラマー、トミの名曲「土手」です。他のメンバーの曲は、ダンディブラザーズ(高緑+宮本)、ガンダーラコンビネーション(石森+宮本)など、共作の形になっています。トミが提供している曲は「土手」1曲というのは、感慨深いものがありますね。


 宮本浩次は幼少の頃、NHK「みんなのうた」で歌っていた

・これは有名は話ですね。曲は「はじめての僕デス」です。当時10万枚くらい売れたそうで、ということはこの曲は、いまだに宮本浩次最大のヒット曲のひとつだったりする?!ちなみに、この曲が収録されているCD「NHKみんなのうたベスト WAになっておどろう〜ILE AIYE〜 キッズ・バージョン」の歌詞カードには、その歌の内容に合った挿し絵(「チュンチュンワールド」にはひよこ、「一円玉の旅がらす」にはカラスとか)が描かれていますが「はじめての僕デス」の挿し絵は、思いっきり「象」だったりします。お察しの通り、歌詞に象は出てきません。


エレファントカシマシ入門サイト good morning (http://elebox.moo21.com)